打田十紀夫・“秘蔵写真&秘話”館

ギターとは関係ない話題も(が)盛りだくさん。

第六回 全盛期のファイティング写真(updated H17/1/6)
第五回 吉野家牛丼最後の日(updated H16/2/11)
第四回 発掘! 最後のドロップキック(updated H15/7/27)
第三回 ドロップキック、マスターへの道のり(updated H15/6/3)
第二回 ああ、愛しのスライド・バーよ(updated H14/9/4)
第一回 幻のドロップキック(updated H14/7/27)

第六回 全盛期のファイティング写真
(updated H17/1/6)

 私の体力的な全盛期は、高校生のときでした。ジャイアント馬場さんに憧れ、強い男を目指して、日々トレーニングに明け暮れたものです。柔道部主将を務め、県大会でも個人戦・団体戦のどちらもいつも上位で争っていて、今の自分の姿からは信じられないほど、凛々しく、また強そうでした。そんな頃の1枚のファイティング・ポーズ写真をご紹介いたします。

★全盛期のファイティング・ポーズ(写真1

 このページの下の方のコラムで、私のドロップキック写真を何点もご紹介しましたが、昔からプロレスごっこが大好きでした。高校の頃は、文化祭などで柔道部の出し物として学生プロレスのようなことをやっていて、この写真1は確か高校3年生の時のもので、新入生歓迎イベントの控え室で撮った写真だったと記憶しています。当時はジャイアント馬場の全日本プロレスとアントニオ猪木の新日本プロレスが激しい興行争いをしていた時代で、それにちなんでリングネーム(?)も“ジャントニオ馬ノ木(ばのき)”と名乗っていました。いつも覆面を被っていたのですが、ここでは覆面を取ってます。チャンピオン・ベルトも作っていたのですが、その写真がないのが残念です。ちなみに、この写真1の後ろに写っているのは、リング・アナウンサー役の伊藤クンと花束嬢役の池田クンです。

 この写真には、ご丁寧に私のサインまで入れてあります。今ライヴやクリニックで書いているサインとほぼ同じですね。ちなみにこのサインの原型は、私が小学生の時にすでにありました。

 こういった出し物での対戦相手は、たいていの場合、同じ柔道部の中川クンでした。残念ながら彼のリングネームは忘れてしまいましたが、“ドリー・ファンタ・コーラ”とか、そんなようなふざけた名前だったと思います。この新入生歓迎イベントでの対戦シーンの写真も何点か出てきたので、ご紹介しましょう。場所は学校の体育館の舞台の上で、全校生徒を前に披露しています。

★対戦シーン1(→写真2

 これは、私が中川クンにバック・ドロップを食らっている場面です。覆面をしているのが私です。真っ逆さまに豪快に投げられています。ただ、中川クンの左足が流れてしまっているので、破壊力はイマイチだったかも知れません。レフリーをやっているのは柔道部の後輩の谷口、後ろのコーナー・ポスト役は同じく後輩の辻と田中。おー、懐かしい面々ですなあ。向こう側に放送席も見えます。

★対戦シーン2(→写真3

 この対戦シーン2は、場外で中川クンにアトミック・ドロップを食らわんとしている場面です。これはかなり効いた記憶があります。でも、みんな笑ってみてますねえ、真剣勝負なのに…。やられているシーンばかりではちょっと情けないので、今度は私が攻めているシーンをどうぞ。

★対戦シーン3(→写真4

 これはブリッジしてのレッグロックです。当時ジャンボ鶴田がよく使っていました。今思えば、これはリング(?)のもっと左の方でかけるべきでした。というのも、左側が客席で、舞台は客席より高くなっているので、見ている側が何をしているのかよく分からない可能性があります。その昔、馳浩(プロレスラー、衆議院議員)が、馬場さんに『どんな小さいワザでも、3階席のお客さんにも分かるように掛けないとダメだ』とアドバイスされたといいます。プロレスって奥が深いです。

★対戦シーン4(→写真5

 対戦シーン4は、写真がちょっとピンボケですが、私が中川クンにブルドッキング・ヘッドロックを掛けている場面です。ヘッドロックを掛けたまま走り込み、自らジャンプして相手の顔面をマットに打ち付ける荒技です。これは豪快に決まりました!

 皆さんは危険ですので、決して真似をしないでくださいね。ところで、私が高校時代に被っていたあの覆面がつい先日、復活しました。

★あの覆面が復活(→写真6

 これは、昨年の12/3にバックインタウンで開催された“打田十紀夫&浜田隆史 ジョイント・ライヴ”のアンコールでのひとこまです。左が私、右は浜田クンです。知る人ぞ知る浜田クンの‘覆面シンガー’に対抗しての覆面復活となったわけですが、事情を知らない方は何が起きたんだと呆気にとられたかも知れません。すみません。。。

 しかし、このページだけ見たら、とてもギタリストのホームページには思えないですよね。。。

第五回 吉野家牛丼 最後の日
(updated H16/2/11)

 BSE(牛海綿状脳症、狂牛病)発生による米国産牛肉の輸入禁止の影響で牛丼チェーンから次々に牛丼が姿を消しています。我が吉野家もついに2月の10日をもって、一部の店を除き牛丼がメニューからなくなりました。もちろん“最後の日”の10日は、私も“食べ納め”に行ってきましたよ。予想通り多くの人が、牛丼との別れに神妙な顔で列をなしていました。席に着くまでの間、東京に出てきた18才の時(1977年)に牛丼と出会ってから今日までの様々な場面が頭に浮かびました。

 初めて食べて感動した吉野家自由が丘店には、2ヶ月毎日通い詰めました。よくも飽きもせずと思うかも知れませんが、中には1日3食の日もあったくらいです。毎日牛丼を食べるのが楽しみで仕方ありませんでした。吉野家が精力的に店舗拡張をしていた1980年頃には、新店舗開店のときによく半額セールをやっていましたが、その情報を得たときは電車に乗ってまでその店に出向き、2杯食べたりもしました。また、本当にお金がないときに(20才の頃かなあ)、恥ずかしかったのですが一度吉野家でご飯とみそ汁だけを注文したこともありました。本当はこれはNGだったらしく、厨房の中で注文を受けたバイトの人が店長から怒られているのが聞こえました。それから、今では一般化した“つゆだく”などの牛丼用語も早くから覚えて、通ぶって使っていましたねえ。“かしらの大盛り”って何のことか知ってますか? 並のご飯に肉だけ大盛りにすることですよ。

 20代の半ば頃にも、深夜のバイトの帰りにほぼ毎日同じ吉野家に訪問していたことがありました。そのお店は、その時間帯にはいつもお客さんがいなかったのですが、ある時いつものように店に入ると2人の店員が「いらっしゃいま…」と言いかけて顔を見合わせてクスッを笑うのです。きっと「いつものアイツ、そろそろこの時間に来るよ」とでも噂をしていたのでしょうか。噂をすれば何とやらで、あまりにタイミングよく私が登場したので笑ったのかも知れませんが、あれは‘失礼だなあ’とさすがの私も頭に来ました。その後しばらく吉野家を離れるきっかけにもなった事件で、しばらくの間、バイト帰りにはコンビニでおにぎりを買って帰っていました。でも、1ヶ月後くらいにやっぱり牛丼を食べたくなり、店の表からこっそり店員が変わっていることを確認して、またその吉野家に通い始めましたが。今となっては、これも懐かしい思い出です。

 まだまだ他にも牛丼にまつわるエピソードはたくさんあります。とにかく私の食生活の中心はいつも牛丼でしたから。初めてアメリカに行ったときもロスの吉野家へ直行しましたし(写真−1987年)、私の1stアルバムの『ココナッツ・クラッシュ』にも‘牛丼’という曲が収録してあります。私の青春時代(中年時代も)、振り返ればそこに吉野家があったといった感じです。ああ、しばらくは食べられないのですね…。当然あると思っていたものが突如としてなくなると、心にぽっかり穴が空いたように感じてしまいます。パット・ドノヒューやボブ・ブロズマンなど、付き合いのある海外ギタリストにも牛丼ファンは多く、日本に来た際に牛丼が食べられないと悲しむと思います。早く復活する日が来ることを切に望みます。

第四回 発掘! 最後のドロップキック
(updated H15/7/27)

 “十紀夫語録”の6月10日の書き込みでご紹介したように、私のドロップキックの秘蔵映像が発掘されました。『打田十紀夫ホームページ』オープン1周年記念として、日頃から応援してくださっている皆さまに特別に公開したいと思います。長らくお待たせいたしました。えっ、別に待っていなかったって?スミマセン。

★秘蔵映像(QuickTimeムービー)を見たい方は、こちらへどうぞ。6.6MBもあり、少なくともADSL以上の環境でないと厳しいかも知れませんが、是非ともご鑑笑ください。

 この映像は、家族で小金井公園を散歩中に、子供を撮るために持参していたビデオでウチの家内がたまたま撮ったものです。いや、‘たまたま’という表現は当たっていないかも知れません。散歩中に、立ち入り禁止の敷地を囲む有刺鉄線の杭が目に入り、それを標的に急にムラムラとドロップキックをやりたくなった私が、家内に撮るように強要したのでした。時期は、画面にも出ているように1991年(平成3年)1月で、ちょうどTABギタースクールを立ち上げた年です。今から数えると、もう12年半も前の映像です。

 このコーナーの第一回で紹介した高校時代のドロップキックの写真と比べると、高さやフォームの点で完璧ではありませんが、それでも私が飛べた時代の貴重な映像です。この映像を見て、ますますドロップキックを復活させたくなりました。その頃より10〜15キロほど体重が増えている今、もしドロップキックを決めることが出来れば、威力はかなりのものがあると思います(いったい誰に決めるのか?)。その反面、落下したときの衝撃も大きくなっているので、危険といえば危険ですが。

 ドロップキックを決めて得意げな私に駆け寄る子供(当時3才)も、今では中学3年生。私より背が高くなってしまいました(でも、体重ではまだまだ負けていませんが…)。

 ムービーを見るには、QuickTimeプレイヤーが必要です。左のアイコンより無料でダウンロードできます。
 (Mac OS X・Mac OS 8.6/9・Windows 98/NT/Me/2000/XPの各システム用)

第三回 ドロップキック、マスターへの道のり
(updated H15/6/3)

 私の“ドロップキック(跳び蹴り)”への思い入れは相当のものです(第一回より続く)。小学3年の時にプロレス・ファンになって、「カッコイイー!」と真っ先にこの技の虜になりました。当時は、日本プロレスの全盛期(今はもう存在していません)。インターナショナル・ヘビー級チャンピオンの大エース、ジャイアント馬場さんを筆頭に、馬場さんのタッグ・パートナーだったアントニオ猪木、アジア・ヘビー級王者の大木金太郎、“火の玉小僧”吉村道明…この4人が中心となって、強豪外人選手と熱闘を繰り広げていました。その頃日本プロレスのテレビ中継はゴールデンタイムに放送されていて、視聴率もなんと常に25パーセントを確保していました。全日本プロレスや新日本プロレスが設立される何年も前のことです。日本の庶民の多くがプロレスを愛し、みんながプロレスを注目していた、いい時代でした(しみじみ)。ドロップキックは、そんな古き良き時代の華やかなるプロレスの象徴ともいうべき技なのです。

 日本プロレスには、2人のドロップキックの名手がいました。今はどちらも故人ですが、ジャイアント馬場さんと吉村道明です(アントニオ猪木も助走なしで決めるショートレンジのドロップキックを得意としていましたが、相手への当たりが浅く、はっきり言ってあまり威力はなかった、と僕は思うのです…)。吉村のドロップキックは本当に見事でした。真っ正面から飛んで両足を揃えて相手を蹴る彼のドロップキックは“大型ドロップキック”と呼ばれ、それはそれは胸の空く必殺技でした。

 本当のことを言うと、小学3年の時に私が最初にトライしたのは、‘吉村式の正面蹴りドロップキック’だったのです。‘吉村式’は「ただ飛び上がって両足で蹴ればいいんだから、これはすぐにできるのでは」と簡単に考えたからです。実際、学校の砂場でトライしたら、すぐに様になりました。ところが、考えが甘かった…。背中から落ちるときに息が詰まるような苦痛がしたのです。そう、受け身も何も考えずやっていましたから、要は“ひとりボディスラム”を食らっているも同然だったのです。あるいは“ひとりセントーン”と言った方が正しいでしょうか。それでも、友達から「やってみてー」とせがまれると、苦痛をガマンして正面蹴りドロップキックを披露し、「すごーい!」と喝采を受けていい気になっていました。

 そんなある日、休み時間にトイレに行ったときのこと。なんとオシッコが真っ赤!なのです。流血がつき物のプロレスとはいえ、弱冠8才の私は、ショックで怖くなりました。「ど、ど、どうしよう!・・」あまりの怖さに親にも黙っていました(今だに親は知りません)。それでも子供ながらに原因はドロップキックだと分かりました。落ちるときに背中を強く打って、腎臓を痛めたのだと直感的に感じたのです。“血尿事件”は、私の人生における数多くの事件の中でもかなりショッキングな事件のひとつでした。しかし!こんなことがあってドロップキックを諦めたかというとそうではありません。なんとその翌日から、今度は相手を蹴ったあと体を捻って前面で着地する、‘ジャイアント馬場さんの「32文ミサイルキック」式ドロップキック’の練習に入ったのです! それにしても、なんたる執念でしょう! 何がそこまで十紀夫少年をドロップキックに向かわせたのか! まさかその時点で将来プロレスラーになろうなどと思っていたわけでもないし。まあ、純粋に憧れていたんでしょうねえ(でも、この気持ち、ギターにも通ずるものがあるような気がします)。

 昔はビデオなどありません。スローで何度も再生して覚えるなどということは不可能どころか、考えも及ばない時代です。茶の間のテレビを独占して、プロレス中継にかじり付き、まさに‘ドロップキックが出た瞬間!’を脳裏に焼き付けるしかなかったのです。当時の練習風景の貴重な写真が、どういう訳か残っていましたのでご紹介しておきましょう。何点かは私の楽譜集「思い出の鱒釣り」の中に掲載されていますが、未発表写真もありますので是非ご覧ください。

★小学3年の時の練習写真(写真1 写真2

 写真1と写真2の2枚は、小学3年の時の練習風景です。場所は、友達の吉野クンちの庭です。吉野クンの弟に服を持ってもらってそれを蹴るといった練習なのですが、今思うとあまり効果的ではありません。蹴ったあと体を捻ることができないからです。写真1を見てもらうと分かるように、案の定、蹴る前に落下する時のことが気になってしまっています。また両足も揃っていません。それから年月を経て、小学6年時にはほぼ完成したのでした。小学6年のときの練習風景の一場面も写真に撮ってありました。

★小学6年の時の練習写真(写真3 写真4

 この写真3と写真4は、友達の豊久クンちの庭での練習風景です。ここでは熊手を立ててそれを蹴る練習をしていたようです。両足も揃ってきており、かなり様になってきています。写真4の熊手の吹っ飛び方から見て、威力もありそうです。それでもまだ、落ちるときのことをどこかで気にしているのか、蹴る瞬間に標的を見ていません。下の写真5も、この小学6年のときの練習時に撮ったものです。友達の二井クンを蹴ったように見える写真を撮ろうとしたものなのですが、豊久クンのシャッター・チャンスがよくなかったのと、二井クンの顔がにやけていてリアリティがなく、ちょっといただけません。

★小学6年の時の練習写真(写真5

 以上のようなまさに血の出るような試練を経て、とにもかくにも私のドロップキックは高校の頃に完成したのでした。このコーナーの第一回でご紹介した写真でご覧になっていただければお分かりのように、自分で言うのもなんですが、それは見事なものでした。その頃の私のドロップキックは有名で、四日市高校の卒業アルバムにも次の写真が掲載されたほどです。

★高校の卒業アルバムより(写真6

 フェンスの両側を押さえてもらっていて、真ん中の鉄芯の部分を両足でキックする直前を捉えています。この後、両足で蹴った勢いで体をひねり、体の前面で受け身を取って落ちるわけです。それにしても、友達のあきれている顔がなんとも印象的です。

 ちなみに、高校の頃から体重が15キロも増えた今は、昔のように飛べなくなってしまいました。というか飛ぶような機会もありませんし…。それでも一度自宅で練習しようとしたことがありましたが、こんなざまです(→写真)。飛ぶ感覚は今でも忘れていないので、いずれきっと“打田十紀夫、ドロップキック復活!”の文字が東スポを飾る日が来ることを信じて、努力を続けようと思います(あり得ない話ですかねえ)。

 ここまで執念を持って取り組んできたドロップキックですから、またいつの日か触れることもあるでしょう。しかし皆さん、くれぐれも真似しないようにしてくださいね。

第二回 ああ、愛しのスライド・バーよ
(updated H14/9/4)

 「十紀夫語録」でも書いたように、大楽器祭2002ではいくつか掛け持ちでデモ演奏を引き受けたため結構バタバタしましたが、何とか切り抜けてホッとしています。大楽器祭は、楽器フェアと1年おきに代わり番こに開催されていて、前回は2000年に開催されました。その時は、モリダイラ楽器さん主催の「フィンガーピッキング・ライヴ&セミナー」で1時間ほどのデモ演奏をやらせていただいたのですが、実はその時にとても苦い思い出があるのです。かれこれ20年間愛用してきたガラス製のスライド・バーを落として割ってしまったんです。

 出演が間近になった私は、SHUBBのカポタスト、サム・ピック、そして愛用のスライド・バーを胸のポケットにしまい、ステージ脇に待機していました。通常カポタストを2フレットに付けてプレイする私は、「さて、そろそろ準備しようかな」と胸のポケットからカポを取り出しました。その時です。カポに引っかかって、スライド・バーまでポケットから出てきてしまったのでした。「あっ」と思ったときはもう時すでに遅しで、スライド・バーは宙を舞っていました。床にカーペットでも敷いてあれば、まだ望みはあったかも知れませんが、会場は科学技術館、その言葉の響きからして言わずもがなでしょう。スローモーションでも見ているように、スライド・バーは床に到達し、“パッリ〜ン”と美しくもはかなく粉々になってしまったのでした。

 思えばこのスライド・バーは、20年程前に近所の楽器屋さんで手に入れたものでした。“当店特製”と表示されていたそのバーは当時で2,000円もして、ちょっと高いと思ったのですが、とにかくガラスが極厚で私の指にピッタリとフィットしました。入手して以来、それに優るスライド・バーにはお目にかかったことがありません。とにかくそのバーは、私のスライド・プレイには欠かすことの出来ない存在になりました。代用のスライド・バーなど持っていなかった私は、その日のステージでは、明らかにエレキ用のペラペラのスティール製バーを借りて演奏する羽目になりました。もちろん演奏に集中できなかったことは言うまでもありません。

 茫然自失の私を哀れんでか、関係者の方が破片を拾い集めてガム・テープで復元してくれ(トホホ…)、後日届けてくれました。Mさん、ありがとうございました(涙)。でも、当然もう演奏に使うことなどできるわけはありません。

(こんな姿になって帰ってきました→写真

 以前、ある雑誌のインタビューで、その愛用のスライド・バーのことに触れていて「このバーが割れたらスライド奏法やめます」と、うかつにも言ってしまっていました。その記事を覚えていらっしゃった何人かの方からその後、「もうスライドやめるんですね」と声をかけられましたが、今ではちゃっかりと800円のスライド・バーでスライドを弾いています。それでも、あのバーの感触が未だに忘れられませんので、テーピングされたその亡骸を大事に取ってあるのです。それ程思い入れの強いスライド・バーでした(チャンチャン)。

第一回 幻のドロップキック
(updated H14/7/27)

 私がプロレス・マニアであることは、広く知られるところです(かな?)。プロレス・マニアというか、「馬場さん信者」といった方が正しいでしょう。小学校3年生の時に、ジャイアント馬場さんの試合にしびれてから、今日まで馬場さん一筋。馬場さんは亡くなってしまいましたが、それでも私の頭の中では全盛期の馬場さんがダイナミックに躍動しているのです。

 晩年の馬場さんは、メインは若い選手に任せ、もっぱら“楽しい”プロレスを担当していましたが、全盛期の馬場さんは「32文ミサイルキック」というそれは凄まじいドロップキック(跳び蹴り)を得意としていました。少しでも憧れの人に近づこうと、小学3年の頃からドロップキックの練習に入り、高校時代には完全にマスターしました。当時、人気絶頂のミル・マスカラスというドロップ・キックの名手がいたのですが、威力はともかくとして彼より上手いと自負していました。その証拠写真が、下の2枚です。

写真1(カラー)  写真2(白黒)

 覆面しているのが私です。この写真は、高校の修学旅行先でのアトラクションの中で披露したもので、私の楽譜集「ココナッツ・クラッシュ」で掲載して話題になりました(「楽譜集になんでこんな写真を載せているんだ」という具合に?)。その楽譜集では2枚ともモノクロでの掲載だったのですが、実は1枚はカラーだったのです。この2枚の写真は、単にカラーと白黒の違いだけではなく、よく見ると違うアングルになっています。よくぞまあ、こんな貴重な瞬間を2人の人が撮ってくれました。(撮ってくれた人、ここを読んでくれていたら、メール下さい。)

 高校の頃は、柔道一筋の硬派で、今のようにお腹も出ていませんでした。というか、まさに‘6つに分かれる腹筋’そのものだったのです。それをお見せするために、いつどこでも裸になりました。今では、どんだけ力を入れてもお腹は情けないものです。トホホ。まあまあ、それはおいておきましょう。

 この写真のような素晴らしい(自画自賛!)ドロップキックをマスターするまでには、それはそれは血の出るようなトレーニングを積んだものです。その完成までのダイジェスト写真が、私の楽譜集「思い出の鱒釣り」の中に掲載されていますので、是非そちらもご覧ください。また、完成までの‘聞くも涙、話すも涙’の苦労話もそのうちアップしたいと思います。ではまた。


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